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苦しかったお仕事に呼ばれた訳?


6月初めにここで宣言したように、もっと頻繁にブログも更新しようと思っていた
シャモニでの1カ月と21日のお仕事生活。
先週の木曜日に無事に終えて、家に戻ってまいりました。
フランスの田舎で日々ゆっくり暮らしている私には、まだやればきちんと働けるのだという自信にはなったものの、
日本の仕事の仕方、リズムへの復帰は、本当に苦しくて、心から疲れ果ててしまい、
次回は頼まれても絶対お断りしようという、強い思いが確立いたしました。
山のエネルギーがどんなに強くても、寝食が取れないほどの毎日、
どんなダイエットやジム通いをしてもなかなか痩せれなかった体重が、7キロ減、
体脂肪ともどもぐっと減ったったことがそれをよく表しております。
(長年履けなかったズボンが、みんな履けるようになってしまいました!)
10年以上前に毎夏やっていたお仕事とはいえ、以前は電話とファックスの世界でした。
でも今はすべてメール、添付するものもエクセル文書だったりと、浦島花子のようなお婆さんはついて行けません状態でありました。
パソコンの前にいる時間が長くて、目はしょぼしょぼ真っ赤。
夜中遅くまでフランス語はまだしも、英語でメールを送るのが苦しいこと!
10年以上前は決まったエージェントからの催行ツアーばかりで、仕事内容はもっと単純でした。
現在はそれらのエージェントから独立した人たちが、他のエージェントを作って、
個性あふれるツアーを企画して手配依頼してきます。
エージェントの量がなんと増えたことでしょう!
個人レベルのお客様も皆さんリピーターで、いろいろなことをよくご存じ、こちらへのリクエストが複雑になったことが忙しさの原因だと分析できます。

休みを取った時には、300メートルの高さにあるシャレフローリアまで、頻繁にガンガン歩いて、トレーニングを積む計画でしたが、それもはかない夢でした。
たった一回だけ歩きましたっけ。
お客様に付いて山のツアーガイドに出る時が、唯一眠れてまともに食べれる時でしたが、
花が咲き乱れて、美しい景色を眺めながら歩くことも一回だけで、
なぜならもっとハードなツアーに出ることは、寝不足の日々のせいで体力的に全く自信がなく、断っておりました。
それでもエギーユ・デュ・ミディにも何回も登ったし、車でグリンデルワルドやツェルマットまでトランスファーサービスもやって、
ドライブを楽しむこともありました。
懐かしい人々と出会ったり、ここが私のフランス生活での原点だなと、あらためて感じることもできました。

前回のブログで、シオンにサッカーの練習試合を見に行ったことを書きましたが、その翌日には、
数年前から入退院を繰り返している、シャモニの名物日本人ガイド、Jさんのお見舞いに行きました。
ジュネーブからシャモニに向かう時、サンジェルベや、サランシュという下の町から上がって来るのですが、
その時左側の山の高いところにへばりつく村に、建物がいくつか見えます。
あのキュリー夫人も最後に療養したというサナトリウム群です。
今日では、もう治らない末期癌の患者さんなどが療養する村とされています。
Jさんももう何度もそこに入ったり、よくなって家に戻ったり、でもやっぱり自力での生活が難しく入院したり を繰り返していると伺っていました。
私が伺った日はちょうど土曜日で、上司のK氏と、J氏リクエストの町の市場のサクランボを買って持って行きました。
古くからある静かな病棟、病院という感じがしなくて、素敵なところでした。
J氏は、以前ほどではないけれど、それでも毒舌もちょっと披露してくれました。
でも、息はほんとうに苦しそう、なのに、ベランダの灰皿には煙草の吸殻がたくさん。
どんなに止めろと言っても聞かないのですものね、しょうがない…。
お客様に花の名前を聞かれて「タカネオレシラネソウ」 と言って許される唯一のガイドだったJ氏。
元気な姿を知っている私には、痩せてトイレに立つのも難儀する彼の姿は相当ショックで、
Tシャツを着替えるのを手伝ってあげた時の熱のある身体の熱さが忘れられません。
お見舞いを済ませた後、まだ動揺している私を、K氏がその村にある教会に連れて行ってくれて、私の心は本当に助かりました。


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モンブランを真正面に同じレベルで見れるようなその高い村に建つ教会は、
外も中も有名なアーティストの作品で出来上がっていました。
工事中だったし、立ち寄ったのはほんの10分くらいで、私の写真もピンボケで、
大したものは撮れませんでしたが、ちょっとご披露します。

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シャガールや、マティスくらいしか私は名前を知りませんが、
ステンドグラスやタペストリー、絵画や彫刻が、すべて名のあるアーティストによるものだそうで、
なのにあまり人に知られることなくひっそりと建っている様が、
私と同じように、最期を待つ人々を見舞った後の人々の心を慰めてきたのでしょうか?

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パリオペラ座ガルニエ宮の天井と同じタッチ、シャガールの絵ですね。


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数年前一人で訪れた、ニースの丘の上のマチス美術館を思い出させてくれました。


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ステンドグラスのモチーフにジャンヌダルクもいました。
オルレアン近郊に住む私が反応しちゃうところが自分ながらおもしろいです。



J氏はその後10日も経たない6月15日に亡くなりました。
恋する女性が他の人に嫁いでしまった日本に見切りをつけて、
何カ月もかけて貨物船に乗ってたどり着いたヨーロッパ、そしてシャモニで、人生を謳歌しきった(と思いたい)J氏。
その後交流を再開したその時の彼女が駆け付けたのは、彼が亡くなった翌日でした。
彼女が来てくれるってよ というK氏の言葉で安心してしまったのかもしれません。
アヌシーの火葬場に旅発つ、雨が降り出しそうな曇った朝、日頃元気なシャモニのガイドたちみんなが集まって涙で送りました。
アヌシーにはジュネーブからもたくさんの人が駆け付け、その後骨ではなくて灰となったJ氏を偲んで、
K家では精進落しも行いました。
数日後には故人の遺志通り、シャモニに流れるアルブ川に、灰を流しました。
そうすることによって、J氏はジュネーブまで流れて、レマン湖に入り、ローヌ川を下り、地中海に出て、
大西洋に流れて、インド洋を通って、
来た時と逆の道をたどって、大阪に辿りつけるのです。

シャモニのガイドで、1924年にシャモニで行われた第一回の冬季オリンピックにも貢献した、
作家でもある フリゾン・ロッシュ (ROGER・FRISON・ROCHE)とも仲のいい友人であったJ氏。
フリゾン・ロッシュの 『PREMIER CORDEE 邦題:ザイルのトップ』は、私がフランス語を一生懸命勉強していた頃、クマがプレゼントしてくれて、
初めて読破できたフランス語の小説だったので、ぜひともサインが欲しかったのに、
その後J氏にロッシュに会いに行くことを頼めないまま、数年前にロッシュは亡くなってしまって後悔しきりでした。
今頃、ふたりはモンブランを眺めながら、おいしいお酒を飲んでいるんでしょうね。
私も、町ですれ違うと、「お~ちょっと来い」と呼ばれて、
「あ、今お客さん待ってるから忙しいんです~」と言っても聞いてもらえず、
一杯ごちそうになった元気だったころのJ氏を思い出して、
あの時のままのおいしいお酒を、今はゆっくり飲みたいと思います。

ふっと考えれば、数年間全くシャモニの山の仕事に就いていなかった私が、わざわざ今年に限って呼ばれたのは、
J氏に会うためだったのかもな~ と思えるのです。

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by tchierisu | 2010-07-28 18:41 | フランス生活